(この記事は2024年6月19日に執筆したものを掲載している)
私には、平均値から外れた自分の悪癖というものによく振り回されることが多い。あらゆる特性を病気や障害にカテゴライズするようになった現在において、「健常」とは何なのかなど分からなくなっている節もあるが、私は健常ではない人格(精神・脳)を有しているという自覚がある。その上で、悪癖を分類し自覚しておくことで自分の社会生活の助けになるのではないかと考えたため、この日記に残すことにした。
脳科学的には「人格」も「心理」もあくまで脳の発達やホルモンの分泌及び神経伝達物質の活動によるものとして捉えることができるはずだが、ここでは敢えてそうした物質的な話ではなく、抽象的な捉え方として自分の人格や心理について考えていきたい。その方が普遍的なためである。自分ならではの問題ある悪癖というものについてピックアップしていく。
購入と売却を繰り返す
私は双極性障害(II型)もしくは気分循環性障害というものを患っている自覚がある。これは正式に診断を下されたものではないため断言することはできないが、明らかにこの症状によって生活に困難を強いられている部分がある。「購入と売却を繰り返す」というのはその代表的なものである。私はミニマリズムを支持している一方で浪費癖があり、また"質の良いもの"に対するこだわりがある。音楽を聴くためには本来ある程度の品質のワイヤレスイヤホンが1つあればいいわけだが、前述した気分循環の一環で高級なオーディオプレイヤーと有線イヤホンを衝動的に購入してしまうことがある。自分にとって必要か、不必要かという基準が自分の気分によって逐一変わってしまうため、必要と思っては買い不必要と思っては売却するといったことを幾度も繰り返している。これの被害に遭ったものとしては、SteamDeck(小型ゲーミングPC)、HHKB(高級キーボード)、HX STOMP(マルチエフェクター)、自作PC、iPad Pro、スマートウォッチ、ゲームコントローラー、ベースアンプ、エレキベース本体などが挙げられる。必要か不必要かという点を正確に判断できないこと自体に大きな問題はないのだが、それがコロコロと変わってしまうことによって金銭的に負担がかかっている節がある。対策も難しい。
約束とキャンセルを繰り返す
同じく気分循環による悪癖である。友達と会う約束から一緒にバンドをしようという約束まで、私はありとあらゆる約束を取り付けるようになってしまう時期とそれらを全て無に帰す時期がある。先月どうしようもなくやりたいと思っていたことが、今月においては全く意欲が湧かず忌々しいものとなっていることが非常に多い。自分で発生させた義務を全て投げ出すことによって、周りの人から非難されたことも少なくはない。何でもかんでも疾患のせいにするのはどうかと思うが、社会一般から外れているという意味では人格であれ"病気"に分類されても問題ないのではないだろうか。対策としては、我慢強く「約束をキャンセルしない」選択肢を取ることが有効だが、そう簡単ではない。しかし、実際に約束を履行してみれば、なんだかんだ言ってそれは過去の自分がやりたかったことでもあることから、達成感や利益というものが相応にあることが多い。現在の自分の感覚のみでなく、過去の自分の感覚も考慮することによって、未来の自分の感覚というものにより貢献できるということを自覚しておくべきだろう。また、約束のキャンセルによる不利益についてもよく把握しておくことで履行の義務感も増すのではないだろうか。
不道徳なまでのリスクヘッジを行う
これは「自分・他人に対して失敗する恐怖」によるものだと分析している。分かりやすく言うと、就職活動においてA社の内定を承諾して内定者や人事部と交流を続けた上でB社・C社の選考にも参加する、といった状態などのことである。現代の就職活動においてこれらは概ね一般的なことではあるだろうが、こういった不道徳なまでのリスクヘッジを私生活においても行ってしまう節がある。不道徳すぎて日記には書きたくなるほど嫌な失敗や経験というものがある。これはパーソナリティの問題であろうが、家庭環境に問題はなかったため先天的な遺伝子の問題か、もしくは生きてきた中でのどこかのトラウマが原因なのかもしれない。
虚無主義・悲観主義
人と関わらずに西洋哲学を中途半端に齧ることによって生まれてしまった卑屈な悪癖の一つ。体系的な思想があるわけではなく、中途半端にニーチェやシオランを学んでしまったがためにこれらの主義思想を利用して社会や人と距離を取るようになってしまった。都合の良い時だけこれらの考えを持ち出して自分を守ろうとすることが多く、なかなか治したいものの一つでもある。もっと哲学を学ぶことによって、ポジティブな虚無主義として自分の中で安定したものにしていきたい。
他人を人間だと思えない
これはかなり由々しき問題だと自覚していて、他人のことを自分と同様に思考する人間として捉えることができないという悪癖である。具体例として述べると、私は同世代の女性について、その8割を「Netflixとカフェ巡りしか趣味がない、思考能力を失いSNSに夢中になっているアホ」だと本気で信じていた。大学の同級生などについてもその多くを「飲み会やソシャゲしか趣味がなく、バイトと大学を往復するだけの可哀想な人たち」としてカテゴライズしておくことが多かった記憶がある。もちろん実際に彼らがそうした人間であるはずはなく、それぞれの人には家族が居て人生があり、私と同等かそれ以上に何か悩みや考えていることがあるはずなのだが、そこまで私の想像力が及ばないことが多い。もしくは、そこまで想像力を及ばせることを私自身が拒否していたという節もあると思う。これについては社会と関わり学びを深めていく中で改善傾向にある。
メタ認知を放棄している
これは肉親に指摘されて気が付いたことである。「他人を人間だと思えない」という悪癖についてもこれに近いが、より根本的なものだ。この悪癖は「私」は「私」の視点でしか物事を感じて考えることができないため、それ以外の視点(社会・他人)で物事を感じて考えようとすることは無意味である、とする思考のことである。客観的な視点を持つことは自分の精神において不利益をもたらすため、必要ないとしていた。つまり不必要に「社会」という虚像を意識しないように生み出した自分の中のルールなのだが、これが強まりすぎることによって社会生活に支障をきたすこということに気がついた。今でも比較的この視点を支持しているので、中庸に寄っていく必要はあると思うが、何かまた別の正解がある気がするのでよく考えていきたい。
問題から目を逸らして解決を先送りにする
自分にとって不利益な事実から目を逸らして解決を先送りにすることが多い。メールやLINEなど、開くことで精神的にダメージを受けそうであることを察知すると一週間ほど放置してしまうことが非常に多い。過去には、異性からのメールを3ヶ月間放置してしまったことがある。人間としての弱さであり、病的とは言えない(と思うが、社会生活上問題がある)。
性に対する嫌悪
出所が不明の悪癖である。身近にポルノを利用する形で育ってきた世代の私ではあるのだが(世代のせいにしてはいけないかもしれない)、ここ3年間において性嫌悪がかなり強くなってきた。女性の性欲というものを「得体の知れない気持ち悪いもの」として自身の感情が処理している節があり、また性行為そのものについても謎の気持ち悪い行為だと感じる時がある。過去のトラウマによるものかもしれないが、自覚する限りにおいて特にトラウマはないので、原因はよくわからない。
酸っぱい葡萄
すなわち自己正当化の悪癖である。挫折することを恐れて、「これは挫折ではなく、興味がなくなっただけである」と自分の中で勝手に納得して終わらせようとしてしまう癖があることに最近気がついた。この問題については私の感覚としては本当に興味がなくなっているように感じるため、自己正当化なのかそうでないのかが本当に判らないが、客観的に見ると自己正当化だろう。しかし、「私」は「私」の視点でしか物事を認知して考えることができないため、客観的に物事を見ることはできないので考えることは無駄である(メタ認知の放棄という悪癖が出る)。
生活における困難から人格における困難まで、私の悪癖をいくつか書き上げた。本来はこれとは比べ物にならないほど多くの悪癖があるが、代表的なものとしてこれくらいに留めておく。「悪」癖であることから、もちろん改善したいと考えているものではあるが、柔軟に自分の性質として考えていきたい。
自分の人格に大きな問題があることは薄々気がついていたが、こうして列挙してみるとなかなか卑屈で面倒かつ反社会的であることがわかる。何故こうなってしまったのだろう。