最近の私はもっぱら、音楽への取り組みを辞めることについてばかり考えている。あくまでも気分循環の一種であるという自覚はあるので、致命的なダメージにならない程度に暴れたり休んだりするようにしている。練習の意欲が湧かない時であっても取り合えず楽器を握れば体が勝手に練習してくれたりするので、音楽生活には支障をきたしていない。しかし、このモチベーションの低下が続いてしまうと自身が望む成長ができないため、早めに解決したい。何か行動によって解決できる事柄ではないため、休暇を楽しむようにしたい。

音楽を辞めたいと考えている理由は、「意味がないから」であるわけだが、これについて一歩引いて考えてみると、なんとも不毛な理由である。最近の私のトピックは「年収が2000万あってもやりたい音楽とは」「全部無に帰すのに生きる(音楽をする)意味とは」というものである。もしも自分が年収2000万あった場合、私はよく知らないJ-POPのアーティストのサポートなどは全部断っているだろうか?私は元々、自分のアーティストとしての音楽にのみ興味があり、サポートについてはやりたくないと前々から思いながら取り組んできた。その一方で、人と何かのプロジェクトに参画して一つのものを作り上げるというその行為には魅力を感じている。まあどちらにせよ、どんなに苦労して物事に取り組んだとしても全て無意味であり私は老いて死に、歴史に名を残したとしても地球も人類もいつかは消えてしまう。こうしたことについてベッドの上でウジウジと考えていると気分がどんどん鬱屈としてきて、またInstagramでリールをスワイプし続けるだけの一日になってしまうわけである。

何か物事に対して「意味がない」と考えている時は決して真理に向き合おうとしているわけではなく、少なくとも私においては単なる気分循環の波としての抑鬱状態であるということを自覚している。地球や人類がいつか滅ぶことも、私が年老いて死ぬことも最初から分かりきったことであり、それを急に思い出して音楽をすることについての是非を問い始めて気が狂いそうになっているのは、おかしい。

そんなこんなで、今日は色々な本を読んでいた。

世の中にある娯楽の中でも特に、物語というものはそれを読む時期によって感じる事柄というものがかなり異なるということを感じる。物語に自分を投影させて反射した自分を見ているようなものと表現するのが正しいだろうか。人生と共に在ってくれて有難いものだと思った。

昨日から運動を始めた。家から一歩も出ずに一日を終わらせることになってしまいそうな日には、10分だけでもいいからランニングや筋トレを行うことにした。家から出る日は大体楽器を担いである程度の距離を歩くため、十分運動になっていると判断してこうしたルールを設けた。なぜ急に運動を始めたのかというと、脳の機能の低下を感じたためである。運動をすることによって脳が活性化することには何らかの根拠があり、それを知っておきながら運動をしてこなかった自身の怠惰さにうんざりしながらも、今からでも改善していこうと思った。おそらく1週間ほどで諦めることになるだろう。私は家から出ない日が非常に多く、またそうした日は余計に家から出たくない、体を動かしたくないと心の底から思っているためである。

追記: 6月はまもなく終わりを迎えようとしているが、この日以来運動はしていない。