(この記事は2024年6月21日に執筆したものを再構築している)
最初の傷は憂鬱
今朝、ラジオを聴きながらデスクチェアで回転しながらくつろいでいたところ、回転している最中に背もたれがひっかかったことが原因でエフェクターが机から落ち、楽器の2箇所にえぐれる形の傷がついてしまった。あまり目立つ傷でなかったことは幸いだが、買ってから2ヶ月も経っていない、48回払いのローンで購入した楽器に自らで傷をつけてしまったことに非常に落ち込んでしまった。
形あるものは自然と傷が付き、いつかは壊れるわけだが、それにしても最初の新品の状態からついてしまう傷というのは何とも悲しい気分になる。こうした傷が積み重なっていくにつれてあまり気にしなくなっていくということは心では理解しているものの、自分の不注意が原因ということもありとても憂鬱になった。実のところ、購入した105万という価格から、その傷によってリセールバリューが大幅に下がってしまったのではないかという気持ちがそれをより増大させていた。
昨日の午前中まで、私は音楽を辞めることについてずっと考えていた。理由は「意味がないから」であるわけだが、昨日セッションホストをしていたらその気持ちは一瞬で解決された。見立て通り、家で引きこもって練習する中で気持ちが鬱屈としていたことが原因であり、人と交流し一緒に演奏し、リスナーから拍手などを貰う中でその気持ちは消えていった。仕組みは意外と単純なのだと思う。
自分の気持ちというのは、それを感じている時点においては非常に重要なものではあるものの、その時点を過ぎるとまったく重みのないものになる。また、何か一つの事柄によって左右されてしまうため、自分の気持ちを考慮した人生方針の策定はなかなか難しいところがある。
夜、二週間ぶりにライブをした。最近の憂鬱な気持ちは、やはり練習に対して何か報われる感覚がなかったことが原因なようで、来てくれたお客さんなどと話しているうちに快方に向かっていった。楽器に傷がついてしまったことはショックではあったが、ある程度受け入れられるようになっていた。
誰かが私の演奏しているライブに3000円以上払って来てくれるというのはどこか違和感がある。もちろん目当ては私ではなく誰か他のメンバーであったりするわけだが、どうにも、自分(たち)の演奏がそれほどのお金を払う価値を生み出しているという自信はない。極力良いものをアウトプットできるように努力はしているが、そうした感覚は拭えず、誰かを自分のライブに誘うことも避けてしまう節はある。これは私に自信がないという話ではなく、私自身が「ライブ」というものにそこまで大きく価値を感じていないという点が大きい。
私は同世代のライブにあまり足を運ばない。働いたお金を使うのであれば、より音楽というものを長く探求しているであろう中堅か大御所のライブを観に行きたいと思ってしまう。若手であっても演奏には、その人にしかない個性というものが滲み出る。だからと言って、それらを安易に価値として認めることはしたくない。あくまでも差異であり、そこから創意工夫を積み重ねて価値としていくべきものだと考えている。音楽を芸術として向き合って行きたいので、友達付き合いでも正直若手のライブにはあまり行きたくない。もちろん同世代であっても真剣に音楽に向き合っている人は多いが、正直もう少し熟してから行きたいというのが本音である。
自分の演奏するライブも同じように、もし私が他人であればそのライブを観に行かないと判断してしまう。それにより「価値がないと思っているものを、価値があるものとして売る」という本質的に詐欺師と変わらないという罪悪感があるのかもしれない。実際にライブの価値がどうであれこの意識は、サービスを提供する側としてある程度の問題性を孕んでいる気がするので、何らかの方法により解決して行きたい。