(この記事は2025年8月9日に書いたものを再構築して執筆している)
夕方になり、精神の落ち着きが失われてきたため散歩に出た。
水路の横を歩きながら空を見ていたら、なんだか泣きそうな気分になってきた。
水路を覗き込むと、スマホを投げ捨てたいと思う、あるいは自分も飛び込んでしまいたくなる時がある。先日も橋から夕陽を見ていたら、感極まってスマホを水路に投げ込みそうになってギリギリのところで踏みとどまった。今までにはこうした際に踏みとどまることができず、画面がバキバキになりその後機能を失ったスマホが2台ほどある。
僕にとって狂気を引き起こすのは月ではなく、太陽と水面なのではないかと最近は思う。月と星については久しく意識して観察していないため、自分にどのように作用するのかは想像がつかない。緑は圧倒的に、安らぎをもたらす。
メンタルの状態が悪い時に散歩をしていると、ポエム的な、やけに感傷的な考えが浮かんでは消えていく。よくわからない感覚あるいは言葉の断片のようなものが、恥ずかしげもなく浮かんでくる。普段、自分は感傷的なタイプでは無いのだが、自律神経が乱れるとこうしたものが強迫的に頭から離れなくなる。
夕日に染まった空と、うろこ雲を見ていたら、ある種の神性のようなものを感じて背筋が震えた。そして、ふと空からの景色を想像したら再び泣きたくなった。僕はいわゆる無神論者だが、神を感じることができる素養のようなものは身につけているようだ(基本的に、人間はそれを身につけているような気がする)。
普段、僕は世界は醜くて汚いものだと思っているのだけれど、稀にこうして途轍もなく美しい世界のその偉大さに震えてしまうことがある。最近、会社の同期が「彼女と付き合い始めて世界が輝いて見える」とか何とか言っていて、なんてアホらしい話なのだろうと笑ったが(嘲笑ではなく微笑ましさとして)、何かしらのトリガーが引かれた時には、僕もこうして世界を美しいと思えるということなのだと思う。そのトリガーとして、確かに恋愛は妥当かもしれない。
僕の感受性は常には開かれていないからトリガーが必要だし、そのトリガーに対しても慣れのようなものもあるだろう。快楽順応という人間の機能はなかなかに厄介だ。いつまでも満足することなく、また世界の美しさを感じるために何かの新しい行為をし続けなければならないのだと思うと、あるいはこのサイクルをまた繰り返さなければならないのだと思うと、また憂鬱になった。
読んでくれてありがとう。
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