俗世間の人々が(おそらく)没頭できているのに、僕がなかなか没頭することができないものが一つある。それは「応援」という行為だ。

アイドルやスポーツ観戦、世の中のタレントと呼ばれる人たちなどについて、僕はてんで疎い。エンターテイメントとして社会で大きな力を持つそれらのコンテンツは、人々の応援によって成り立つものだが、僕はそれに一切参加することができない。ポピュラーなものが嫌いという話ではなく、もっとサブカルチャー的な領域や芸術という分野においても特に応援という行為をする意欲がない。

コンテンツとしての成果物を楽しむことは比較的好きだと思う。音楽を常に聴いているし、イラストレーターの個展を観に行くこともある。ただ、それは応援という形での参加ではなく、享受という形での外部者としての行為であるという認識でいる。その成果物を生み出している個人を応援するということは、僕の脳の中に全くと言って良いほど存在しない。

アイドルやスポーツ観戦といった領域の消費者も同様にコンテンツとしての成果物を楽しむというのが主流なのかと考えてみたが、おそらく異なるようだ。彼らは大きく声を上げたり、手や物や何かしらを振り回したりしながら参加している。外部者というよりも、「参加」という形で一体感を味わうことなどがその活動の目的に内包されているように見える(応援という領域への理解が浅いため、その点はご容赦いただきたい)。所謂「推し活」もSNSなどを通じて参加型コンテンツと化している、と思う。

こうした行為を好む人たちに対して自分が精神的により上であると示したいわけではないが、応援という行為に対してなぜ反感があり、それを人生からある程度距離を置くべきかという持論を僕は僕のポジションとして展開していきたい。

応援という行為は自分ができない(と思っていること)を他者に託すという意味合いもある程度あると思う。外部者でありながら、ある側面において参加者になれるという点が自己実現に何かの事情があって取り組めない人を引き寄せるのだろう。そもそも自己実現という概念や人生の物語化など最近流行っているトピックの登場によって反動として応援という活動が促進されているようにも思えるが、やはりその行為は不健全さを内包しているように思える。

しかし、アイドルやスポーツ観戦という観点でいうと、エンターテイメントビジネスとして成立しているからこそ、その不健全さをある程度において相殺されている節がある。子供に夢を託して野球に打ち込ませる父親を想像してみると、わかりやすい。両者が合意の上でビジネスあるいはそれに対する消費として行われているだけ、十分マシだろう。

人によって姿勢が様々なのは当然として、とどのつまり、応援という行為はざっくり「自分ができない(と思っている)行為を行う他者に自分を重ね合わせて共感覚を得る」あるいは「憧れの存在に対して傍観者・享受者ではなく一体となってその領域に内包されたい」といった欲求が含まれているように思う。

そう整理した上で、やはり自分と応援という行為の相性は非常に悪い。僕は何よりも行為の中心に立ちたいと思っている。また、上記のようなまやかし的な感覚で満足してはいけないという強迫観念に囚われている。

僕は応援という行為を前述の捉え方をもって見ているため、応援されることにもある種の嫌悪感がある。僕はミュージシャンであり、ある側面においてエンターテイナーでもある(あらなければならない状況がある)わけで、たまに応援されていると感じる瞬間がある。もしくは、親の子供として(当たり前ではあるが)、応援という行為を受け取ることが過去にはあった(現在もそうかもしれない)。その上で、受け取る全ての応援について、それが存在しない方が自分にとって良いと信じている。

露悪的な言い方にになるが、例えば成人した子供を持つ更年期の主婦に応援されるのが僕はあまり好きではない。自分の人生に終わりが見えてきて有意義な取り組みも見つからなくなった人間が、応援という行為を通して何かを得ようとしていて、自分がその対象になるというのがものすごく僕を苛立たせる。僕に何か(自分、あるいは息子や恋人)を重ねないでほしいと言い換えることもできる。外部者という立場を明らかにして僕と何かを交換する程度の立場でいて欲しいという気持ちがある。歪んだ受け取り方をしている自覚があるが、全くの間違いというわけでもないかと考えている。

何故こうも応援されるという立場を忌避しているのかを自分に問い合わせると、中学受験期を中心に実家で暮らしていた時代に母親から受けた不愉快な気持ちが由来しているように思える。献身的に見える母親は僕のことを応援してるというスタンスでいたが、実際のところ僕が母親を邪険に扱っていたことへの報復としてか、言葉や行動を通して嫌がらせのようなもの(という認識でいるだけで、実際はわからないわけだけれども)を受けた記憶がある。この体験が応援という行為そのものへの嫌悪感を生み出しているのかもしれない。

とにかく、応援は神聖な行為ではないと思う。人間の欲望による、一方的な行為だと、そう思えて仕方ない。たとえエンターテイメントという領域のビジネスだったとしても、やはり良い人生を送る上では不健全として排除しても差し支えないと思える。

この考えは以前父親に漏らしたことがあるのだが、その時は父親から「精神的な営みができない、恵まれない人たち(文脈から低賃金労働者・主婦などを指しているように思えた)には、そうした逃げ道がないと生きていけないのだから、そう否定したり蔑むべきではない」と言われた。これもまた露悪的な視点ではあるが、ある種の正当性があるだろう。結局のところ社会の物事は全て良し悪しで語るものではなく、根源的な構造とそれによって生み出される仮組みのフレームワークのようなものが存在するだけなのかもしれない。人間には何かしら拠り所が必要で、僕が持つ拠り所を共有していない人には応援という行為を拠り所にするのが妥当なのかもしれないと思えた。そもそも他人の行為や精神性にとやかく言うのは不毛なのに、いつまでも僕はそれを繰り返してしまう節がある。

ただ、とにかく僕は応援という概念と離れたところに精神を置きたい。

僕たちは他者で、共有できるものは僅かなので、一体になる必要はなくて、互いに何かを交換する外部者として生きていけば良いのだと思う。寂しいことではあるが、その方がより良いと思う。

読んでくれてありがとう。