(この記事は2024年6月16日に書いたものを再構築する形で執筆した)

僕はTwitterというサービスを小学4年生の時から利用している。

自分の状況や意見などを140字以内になるように成形して投稿し、それに対してフォロワーが「いいね(お気に入り)」という形で承認をくれるその形はどうにも人間の報酬神経を刺激するようで、どうしても止めることができない。その形式、サービスには良い面も勿論あるのだが、不健全さを内包しているように思える。

安易なドーパミンの放出、インターネットを通じた承認という歪さなどのSNSの有害性について今更語るのも陳腐かもしれないが、やはり自分の中で本心から肯定はできていない。そして、そういうことを続けるのは精神のどこかに負担をかけることになる。

簡単に言うと、人生の有限性や深い思索の大切さなどを考慮し、そろそろこの繰り返しから抜け出したいのだ。「インターネットに疲れた」など、生まれた頃からインターネットがある僕にとっては可笑しな話かもしれないが、ここ最近になってSNSへの違和感が大きくなってきている。これは疲労にも近く、また疎外感のようでもある独特な感覚だと思う。このTwitterという形でのコミュニケーション(あるいはコンテンツ)に人生の時間を割くということに疑念を感じている。刺激的な発言を繰り返して承認してもらう形も、誰かの愚痴を見るのにも嫌気がさしてきたのかもしれない。

小学五年生の時にTwitterに登録し、思春期の間は家族や友達と喋る時間よりもそのサービスを利用している時間が長かった私にとっては、人格形成においてTwitterが非常に影響していたという自覚がある。必ずしも悪いことばかりではなく、人との円滑な付き合い方や適切な距離感についても学ぶことができたように思う。

最近は社会生活の中で、成人・社会人としての自覚というものが芽生えてきた節があり、これらはあくまでも虚構であるが「物事について考える必要がある」という意欲や感情を140字で垂れ流して一時的な身内の笑いとして消化しているのはどこか勿体無いと思った。短い人生をより有意義に過ごすために、Twitterで140字の皮肉を吐き続けるのではなく、熟慮された意味のある文章を書き溜めたいと思った。

ブログを改めて始めたのはこうした背景もある。発信によって承認を得ること自体が止められないことはある種の自分の病気(この病は多くの人が患っているようなので、性質と呼んで差し支えないかもしれない)のようなものなので受け入れて、その形式を変えようという試みである。

極端さ、急な変化はリバウンド的な作用をもたらして自分にあまり良い結果を残さないことを経験則的に知っているので、ゆっくりとTwitterからこのブログへと居場所をシフトしていきたいと考えている。最終的には大学の友人や音楽仲間と繋がっている鍵垢も削除したい。半年後、実際にどうなってるかは神のみぞ知るといったところではある。

追記 2025.08.14

現在、過去のブログとしてアップロードしていたこの記事を編集しているわけだが、結果的にTwitterは全く止めることができていない。何故ならこの前ブログも頓挫しているからだ。つまり、現在また同じことに挑戦しようとしているということになる。半年後、どうなっているかまた楽しみにしている。

読んでくれてありがとう。