(この記事は2024年6月24日に書いたものを掲載している)

今日はずっとアルバイトをしていた。

広い意味での金融系の企業でエンジニアと事務職の中間のような仕事をしている。仕事中、PCスタンドの可動域を変えている最中に力余って左手の中指を強く挟んでしまった。内出血になり、現在も痛みは続いている。楽器も3~5日ほどはまともに握ることは出来なさそうでショックを受けた。

ミュージシャンは体が資本であり、頭も資本であり、精神も資本であるということをひしひしと感じる。偶然、明後日にメイン楽器をリペアに出す予定であったため、タイミング的には不都合がなく収まり、しばらくの休暇として他のことを楽しむことにした。

昨晩から、押見修造「惡の華」についてずっと考えていた。この漫画のテーマは「思春期」であり、一見すると性欲を題材にした漫画に見えるが、内実のところ、人生全般に通づる哲学の漫画である。登場人物たちの、思春期を通した変化とそれぞれの心情について考えながら自分に当てはめていると、一つのことに気がついた。それは、自分がまだ思春期を脱していないということだ。年齢として21歳になり、当然のように自分の思春期は終わったと思っていたが、この漫画において「思春期」とされているものを私はまだ乗り切っていないようだ。何なら、ここ数ヶ月においてそれらを進行させながら自分の中で消化しようとしている最中であったことに気がついた。

この漫画の中では、"周りはクソムシだらけであり、抜け出したい" という、逃避や戦いの時期を思春期の初期症状として表している。そこから、"自分もクソムシの一員であり、抜け出すことはできない" という絶望の時期を経た上で、行動や思索の末にそれを緩やかに受け入れていくことを「大人になる(思春期を抜ける)」こととしている(これは非常にざっくりとした私の解釈である)

正直言って、私はいまだに"周りはクソムシだらけであり、抜け出したい"と思っている。ここ数ヶ月になってやっと絶望や諦念などをジワジワと味わい、自意識の緩やかな死を実感しているところではあるが、まだ完全ではない。この時期に再び「惡の華」を読めたことは、何か良い巡り合わせな気がする。私は、緩やかな死の心地良さを知っているが、まだそれを肯定することが正しいとも思えない。自分の悟りを見つけたい。

追記 2025.08.14

惡の華は定期的に再読して自分と重ね合わせる。ものすごく好きな漫画。